2016年7月29日金曜日

ロンドンの駅(5): Waterloo


Brexit後の騒動やらなんやらもあって、またまたブログの更新が空いてしまったが、初心に帰って久々にロンドンの駅紹介記事を書こうと思う。
今回紹介するのは、Waterloo駅だ。Waterloo駅は、テムズ川の南側にあるターミナル駅で、地下鉄3路線の他、国鉄(National Rail)も乗り入れている巨大駅だ。ビッグベンや大観覧車「ロンドンアイ」からも徒歩圏内にあって、いつも多くの人でにぎわっている。Wikipediaによると、イギリスで最大の乗降客数を誇る駅だが、世界ランキングでは91位だそうだ。


Waterloo駅 National Railのターミナル駅なだけあって広々としている

映画「ゴーストバスターズ」の宣伝で、お化けのモニュメントが出現していた


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Waterloo(ウォータールー)という駅名を初めて聞いた時は、何とも変な感じがした。なぜなら、 "loo" というのはイギリス英語で「トイレ」のことを指すからだ。まるで、昔から水洗トイレでもあったかのような印象を与える地名である。もちろん、この解釈は間違いで、Waterlooの由来はフランス語にある。というのも、フランス語読みでは Waterloo は「ワーテルロー」と読む。あのナポレオンが敗れた最後の戦場に由来するのだ。
今のウォータールー駅の近くに、テムズ川にかかる大きな橋が1817年に開通したのだが、ちょうど数年前のワーテルローの戦いでのイギリス軍の勝利を祝して、ウォータールー橋と命名された、というのが駅名の由来になっているようだ。
ちなみに、ナポレオン戦争の舞台となったワーテルロー自体は、今のベルギーにあって Waterloo は Water(水辺、湿地)+loo(場所、ラテン語のlocusに由来)で「湿った場所」という由来があるようだ。

ウォータールー橋(Wikipediaより)


「ワーテルローの戦い」 オランダ国立博物館(筆者撮影)

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このウォータールー駅は、以前は国際列車ユーロスターが発着する駅でもあった。だが、イギリス国内の新路線の完成やセント・パンクラス駅の新装オープンに伴って、2007年にウォータールーにはユーロスターは止まらなくなってしまった。この、発着駅変更の際のフランス側の宣伝ポスターが傑作である。
というのも、その宣伝ポスター、"Oubliez Waterloo"(ワーテルローのことは忘れろ!)とナポレオンが群衆に向かって演説する絵となっているのだ(残念ながら、著作権フリーの画像を見つけられなかったので、実際のポスターはここで確認してもらいたい)。さすが、長い因縁をもつ英仏である。思わぬところで歴史の因果を感じさせるのが面白い。

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ウォータールー駅を通る地下鉄の一つに、「ベイカールー線」というものがある。ロンドンに詳しい人なら、おそらくこの名前だけからピンとくるだろう。そう、この地下鉄はベイカーストリートとウォータールーをつないでいるのだ。その昔、ベイカールー線は「ベイカーストリート・ウォータールー鉄道」と呼ばれていたらしいのだが、さすがにこの名前は長ったらしかったのか、人々はベイカールー鉄道と呼ぶようになったようだ。
この手の省略は日本人の得意技(鉄道路線名だけでも、東横線や八高線など枚挙にいとまがない)だと思っていたが、イギリスでも似たような例を見つけて何とも新鮮な感じがしたところだ。

2016年7月1日金曜日

ヒックスはイギリス社会を楽観するか


「ミクロ経済学の力」(日本評論社)という、つい最近出た東大の神取先生によるミクロ経済学の教科書がある。標準的なミクロ経済学理論を簡潔かつ深く、しかも数式を最小限に抑えた説明で網羅している名著だ。




ただ、この本の本当にすごいところは、終章「最後に、社会思想(イデオロギー)の話をしよう」にあると個人的には思っている。このことを、今日は少し書きたい。

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経済学者というと、市場経済を信奉していて、規制緩和を是とする立場だと思われているかもしれない。これは、ミクロ経済学で習う最も重要な定理である「厚生経済学の基本定理」の主張が強烈だからだろうと思っている。
規制を撤廃して完全競争状態を作り出し、得する人が損をする人に補償金を払えば、国民全員が得することが出来る(「ミクロ経済学の力」p.461)
という、定理の主張が市場経済を擁護する強力な根拠になっているわけだ。だから、自由なビジネスを妨げる規制を廃止し、関税を廃止していき、国を越えた労働力の自由な動きを認めることは、人々全員が得する方向の変化だ、と言えそうなわけだ。ただ、ここで話は終わらない。
現実にはそうした[得をした人から損をした人への]補償は完全には行われない、あるいはまったく行われないまま、市場はどんどん動いてゆ[く](「ミクロ経済学の力」p.461、[]内は筆者加筆)
からだ。この説明の前に市場の変化の例として、「デジカメが出てきて便利になったけど、町の写真屋さんの多くは店を閉めた」ことが紹介されていた。デジカメの普及で得をした人たちは、職を失った写真屋さんに補償をしただろうか。それはもちろんNOだろう。実際に、知り合いに街の写真屋さんがいた身としては、この手の解説を聞くときにはいつも心が痛む。

神取先生は、実際には市場の変化によって損をする人への補償はほとんど行われないことをどう考えるか、市場と社会正義の関係は、この一点に集約される、といっている。

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次に神取先生は、「補償原理」という考え方を紹介している。
市場に(政策変更や技術革新などで)変化が起こる時、得をする人が損をする人に補償をすることで全員が得をすることが出来るのなら、そのような補償が実際に行われなくても、その変化を認めるべきである。(「ミクロ経済学の力」p.462、太字は原文ママ)
これは、なかなかラディカルな主張だと思う。別にいちいち損する人を補償しなくても、あちこちで、市場の変化が重なっていけば、巡り巡ってみんながちゃんと得をするという考え方だ。スマホが出てきて写真屋さんは損をするけど他の仕事の人は得をする、どこでも酒を買えるようになると酒屋は困るけど(写真屋さんを含めて)他の仕事の人は得をする、貿易自由化で農家の人は損をするけど他の人は安く肉を買えるようになる、そういった変化を積み重ねて、プラスマイナス合わせてみれば、みんな得をする方向に社会は向かっていくだろう、ということだ。
このような、極めて楽観的な考え方を最初に言い出したのは、イギリスのヒックスという経済学者とのことで、「ヒックスの楽観」と呼ばれている考え方だそうだ。
そんな都合のいい話があるのか?勝ち組はもっと勝ち組に、負け組はもっと負け組になる変化だってあるんじゃないか?そういう疑問が出てくるだろう。これに対しては、
どちらが正しいのか、というのは実証の問題です。(「ミクロ経済学の力」p.461)
と、ある意味突き放している。市場経済を推し進めて行ったときに、みんながみんな長い目で見れば得をするかどうかは、理論モデルではわからない、データを見てみるしかない、ということだ。

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神取先生は、実際に補償原理の考え方がうまくいっていた、との立場から、いくつかのデータを紹介している。

一つ目は「クズネッツ曲線」と呼ばれるグラフだ。これは、縦軸に格差の大きさ(富裕層がどれだけの富を独占しているか)、横軸に国民の平均所得(平均的な豊かさ)を取ったグラフだ。教科書で紹介されているグラフは逆U字になっている。つまり、国が貧しい状態から成長していくといったん格差は拡大するが、そこからさらに成長していくと格差は逆に縮小していく、ことを意味する。経済成長で勝ち組が総取りしていたら、こういうグラフにはならない、だから補償原理の考え方は問題がない、という主張だ。

二つ目は「世代を超えた」分析だ。補償原理は1世代の中では十分に働かないかもしれない。神取先生が言うように、
デジカメのおかげで家業がダメになった写真屋さんは、生涯「デジカメが出来る前の方がよかった」と思い続けるかもしれません。そこで、自分の子供たちに市場の成果がどの程度いきわたるかを見ていきましょう。(「ミクロ経済学の力」p.467)
というわけだ。神取先生が紹介している研究によると、自分の職業が農家であれ写真屋であれサラリーマンであれ、孫かひ孫まで下れば、自分の職業とは関係なく、その時社会で必要とされている職業についていることが示されている。だから、自分の子孫のことを思うなら、社会全体がより豊かになる変化は受け入れるべきだ、と主張できるわけだ。

これらの具体的研究を引いたうえで、神取先生は次のようにまとめている。
社会正義を考える一番のカギは、「補償原理を一笑に付すのではなく、正面からこれをどう判断するか」という、まさにその1点に集約されると私は考えます(「ミクロ経済学の力」p.470-71)
補償は不十分にしかできません。では、どうしたらよいでしょうか?これが、我々に突き付けられている思想的課題です。「正しい答え」というのはありません。みなさん、一人ひとりでしっかり考えてみてください。(「ミクロ経済学の力」p.471)
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ヒックスが活躍したのは第二次大戦前から戦後の時代にかけてだ。もし、ヒックスが今のイギリスに生きていたら、果たしてどれだけ楽観主義者たり得たのだろうか、と考える。

グローバル化、特に貿易の自由化や労働力の自由な移動を認めることは、それによって恩恵を受ける人と割を食う人を確実に生み出す。そして、今回のイギリスの決断は、割を食った側の人間からの拒否表示という側面があるといえる(離脱派の主張の妥当性自体はここではおいておく)。
一方で、今回の結果を、主に経済パフォーマンスの面から盛んに非難する人が多い。そういった人たちは、おそらく「補償原理」に対して全幅の信頼を置いている人たちなのだろう。それ自体は、まっとうな、そして主流の考え方だし、上の神取先生の解説にある通り、20世紀後半では実際にうまく働いてきたことを多くの実証研究は示していそうだ。だが、神取先生自身が指摘するように、補償原理をどれだけ信頼するかは、人々の価値観によるものだし、同時に、きわめて実証的な問題でもある。

上で紹介した「クズネッツ曲線」は、数年前に話題になったピケティの著書が反論しようとしている対象そのものだ。事実、ピケティは序章で「クズネッツ曲線の理論は間違って理屈付けされている(Kuzunets curve theory was formulated in large part for the wrong reasons)」と否定している。それと同時に、「クズネッツが1953年の著書で示したデータは、突如として強力な政治的武器となった(The data Kuzunets had presented in his 1953 book suddenly became a powerful political weapon)」こと、「クズネッツ曲線の理論は、冷戦の産物である(the theory of the Kuzunets curve was a product of the Cold War)」とも主張している。
私は格差研究の分野は全く知らないので、神取先生とピケティ、どちらの主張がよりもっともらしいのかはわからない。ただ、実証分析は、手元にあるデータで行うしかないし、思想的な背景が容易に入り込んでしまう部分もある、ということに注意を払う必要がある、ということは間違いなさそうだ。

民主主義的に投票で物事を決めようとするときに、投票者は自分の子孫のことまで考えて投票行動を決める義理はない(もちろんそうしてもいいし、若い世代としてはそういう人が増えてほしいとは思うが)。国民投票のような形で、重大な意思決定をしてしまうと、本来ならうまく働いているはずの「世代を超えた補償原理」をみすみす止めてしまう可能性がある。だが、これは民主主義をどこまで尊重するか、という別の社会正義に関する価値判断が入り込むので、なかなか簡単な答えはないだろう。

そして、神取先生が挙げていた「世代を超えた補償原理」が効果的に働くためには、労働者の階層移動が十分に行われる必要があるだろう。逆に言えば、教育に十分な金をかけてもらえた子どもたちだけが、富を築くチャンスをつかみ取ることしかできない状況なら、「世代を超えた補償原理」に対する社会の信頼感は弱まるだろう。カメラ屋の息子がサラリーマンになれる社会なら問題はない。だが、グローバル化から取り残された労働者の子どもたちが、十分な教育を受けられずに、グローバル化の果実をほしいままにする層を横目で見ることしかできない、という絶望があったらどうなるだろうか。

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神取先生は、終章をアルフレッド・マーシャルによる有名な「冷静な頭脳と暖かい心(cool heads but warm hearts)」のエピソードで締めくくっている。衝撃的な投票結果から1週間、イギリス社会は未だに揺れ続けている。成熟した民主主義の大国として、そして、大経済学者マーシャルを生んだ国として、冷静に物事を受け止めつつ、今回の混乱で困っている人に暖かい心を向ける余力を、早く取り戻してほしい、と願うばかりだ。